☆
人だかり。その中に俺、相沢祐一は佇んでいた。
ただ立ち尽くしていた。それしか出来なかったから。
きっと無理だろう。俺は常々そう思っていた。
もちろん出来る限りの努力はした。
それこそ結果がどうであれ諦めがつくほどに。
だがそれは思い違いに過ぎなかった。
その事実に俺は今初めて気がついた。
思うように身体を動かす、言葉を発する、
更にはろくにモノを考えることも出来なくなるという事実に。
「祐一…」
耳に従兄妹の少女、名雪の声が届く。しかし俺は微動だにせず依然立ち尽くしていた。
端から見ればまるで石像のように見えたであろう俺を彼女は長時間見つめている。
それが今の彼女に唯一出来る、いや、彼女にしか出来ないことだったから。
下手な慰めは俺を傷つけるだけ、この場でそれに気づいているのは彼女だけだったから。
喧騒の世界の中、俺たちは2人きりだった。
当然だが話しかける人などいない。けれど、却ってそれは幸せなことなのかもしれない。
今の俺を傷つける人などどこにもいないのだから。
そう、いるのはただ1人、見守る少女。それだけだ。
声にならないやるせなさが少女の頬を濡らした。
彼女に釣られて自然と俺も涙を流していた。
☆
夢、夢を見た。これで4度目だ。
名雪が合格する夢、俺が名雪に勉強を教えてもらう夢、
受験をする夢、そして今日は大学に落ちる夢。
夢だと分かっていながらも何となく鬱な気分になる。
「正夢じゃなければいいんだけどな…」
ふと頬に手を当ててみた。微かに濡れている。
直ぐにそれが自分から流れたモノだと分かった。
「泣いて…いたのか…」
どうやら泣いていたのは夢の中だけではなかったらしい。
そのことに気づくやいなや俺は部屋の中を見回していた。
「誰も見てなかった…よな…?」
流石にこの姿を他人に見られるのはまずい。
幸いなことに部屋には1人、他に人の気配はなかった。
それを確認してほっと胸を撫で下ろす。
(コンコン…)
「祐一〜、起きてる〜?」
とその時、ドアのノックと同時に1人の少女が部屋に顔を出した。
「ああ、起きてるぞ」
軽く返答をする。
「今日、発表の日だな…」
「うん…」
そう、今日は名雪の志望大学の合格発表日。
俺は結果の確認に同行することになっている。
未だ大学に合格していない俺にとっては少しでも勉強をしておきたいところだが、
名雪本人からの申し出なので断わることは出来なかった。
「なぁ、名雪…」
「何、祐一?」
「お前さぁ、夢って信じるか?」
「夢…?」
あまりにも唐突な質問だったので、名雪は頭に『?』マークを浮かべた。
「ああ」
「ん〜、信じるよ。だって、夢にまで見てた祐一がこの街に、私のいる街に帰って来てくれたんだもん」
「そうか…」
「夢がどうかしたの、祐一」
質問の意図が読み取れないらしく、名雪が首を傾げている。
「いや、何でもない、気にするな」
「う〜、気になるよ〜」
「ああ分かった、分かった。今度機会があったらじっくりと話してやるから」
「本当?」
疑いの眼差しではないようだが、念には念を、といったところか。
じっとこちらを見つめて返答を待っている。
「ああ、約束する」
「うん♪」
思い通りの返答に満足したのか、名雪は笑顔で頷いた。
☆
結果発表。遂に名雪が振るいにかけられる時が来た。
いかに努力をしていようがこの一瞬だけで天国行きか地獄行きに分けられてしまう。
皮肉なものだ。掲示板に張りつけられた数枚の紙。その紙に書かれた数多の番号。
番号の有無で全てが決まる。結局のところ、掲示される物に点数などは関係ない。
結果だけが全てだ。しかし、互いにそれに目を向けることが出来ずにいる。
「いよいよだな」
「うん…」
指先に名雪の指が触れる。微かに震えを感じた。
「あっ、祐一震えてる」
「それを言うならお前もだ」
「私は自分のことなんだから当然だよ」
「俺は単なる武者震いだ」
「祐一が張りきってもしょうがないよ」
俺に何故震えが起こっているのかを名雪は勘付いているようだった。
だからと言ってそれを自分から口にするわけにはいかなかった。
先に口にしてしまったら自分の弱さを露呈するように思えたからだ。
約1年前、俺が彼女に誓ったこと。
『・・・俺が名雪の支えになってやる』
雪に包まれた街で交わした約束。
ここで自分が弱気になってしまったら、あの約束は嘘になってしまう。
男の意地に掛けて俺はどんな時でも名雪を支える存在でなければならない。
いや、そうありたい。その思いが自分を支えてくれている。
恐らく約束を交わしていなかったら、俺は今すぐこの場から逃げ出していただろう。
確かに自分のことではないが身内の、しかも自分の1番大切な人のことだ。
とてもじゃないが平気な顔をしていられるほど俺は強くはない。
だが、せめて本人の前では強くありたい。
それが支えるということ、約束を守るということだと思うから。
そのために、俺はこの場に付いて来たのだから。
自分の弱さを出来る事なら見せたくはない。
しかし、口から出た言葉は自分の思いにそぐうものではなかった。
「まあ、そうだな…」
確かに弱さは出ていないが強さの欠片もない。心の支えになるなどとは到底言えない言葉だった。
「そうだよ。それに、どんなに足掻いてももう結果は変わらないし…」
そう、結果は如何なる方法を用いても覆すことは出来ない。
拒むことは許されず誰もがその結果を受け入れなければならない。
「でも、やれるだけの事はやったんだろ?」
「うん…」
「だったら大丈夫だって!俺が保証する!!」
「うん♪」
今の俺にはこうやって名雪を元気付けることで精一杯だった。
「ところでお前の番号って何番なんだ?」
「えっと…153だよ」
「153っていうと…あの板だな」
言うやいなや名雪が板の前へ駆けていった。
慌ててそれに続くが、俺が追い付いた時には名雪は既に目当ての番号を見つけていた。
「あった、あったよ、祐一!」
数多く並んでる数字。俺も確認したが確かにその中に目当ての数字はあった。紛れもなく名雪の番号だ。
つまり名雪は天国行きの門を潜ることを許されたということになる。
「やったな、名雪!」
「うん♪祐一がずっと傍にいてくれたからだよ」
そうだ。俺はこの言葉を聞くためだけにこの場に訪れたのだ。
今の名雪の言葉が実感を湧かせてくれた。俺は名雪を支えていたのだ、と。
「まあ、実際は俺は何もしてないけどな。ずっと傍にいただけだし…」
「それだけで十分だよ」
「まあお前がそう言うならいいけどな。何はともあれ受かって良かった」
「うん♪あとは北川君と祐一だけだね」
「あっ、ああ、そうだな」
香里が合格していることは既に名雪から聞いていた。
そしてそれに続くように名雪が合格を決めた。俺の目の前で。
確かに名雪が合格したことは嬉しい。それは変え様のない事実だが、
自分が合格していないので完全に喜ぶことは出来ないのが実態だ。
俺の闘いはまだ終わっていない。だからここで他人の合格に慢心するわけにはいかない。
これからは誰の為でもない自分自身の闘いなのだから。
「よし、じゃあ今日は名雪の合格祝いに好きなものを奢ってやろう」
「じゃあ私、イチゴサンデー♪」
「分かった分かった。だからそんなにくっ付くなって」
こうして俺たちは百貨屋へと足を向けた。
今日の空は綺麗に晴れ渡っていた。
まるで名雪の合格を祝福しているかのように太陽の光が街全体に差し込んでいる。
しかし、俺の胸中にその光が届くことはなかった。
多分俺の心が完全には澄んでいないからだろう。
どこかにやり場のない感情がある。
原因が何なのか皆目見当がつかないが、だからこそ溢れ出したら恐ろしい事に成りかねない。
それを知りつつも俺は敢えて目を瞑り「奢り」という話を持ち出した。
名雪の喜ぶ顔、それが見たい一心で取った行動だった。
が、逆効果となった。
確かに名雪の顔は笑っていたし、美味しそうにイチゴサンデーを頬張ってもいた。
だが、店に入り注文を済ませた俺は上の空で、
名雪が口にする言葉も軽く相槌を入れる程度しか出来なかった。
そんな俺を見て名雪が言った。
「祐一…我侭かもしれないけど、今は私の合格をお祝いして欲しいな」
名雪にとっては出来る限り優しく言ったつもりなのだろうが、俺の耳には届いてなどいなかった。
☆
帰宅後、夕食を済ませて部屋へと戻る。
春も近づいているというのに未だに部屋の中は寒い。
勿論外の方が寒いわけだが家の中だと着込み具合が違う。
無論それでも風がないだけ体感温度は高く感じるはずなのだが、
今日は何時にも増して冷えているように感じた。
だからといって勉強をサボるわけにはいかない。
今日は1日中名雪に付き切りで一切勉強をしていないのだから。
最低でも夜くらいは真面目にやっておかなければまずい。
幸いにも名雪が合格してくれたのであとは自分のことだけを考えれば良い。
北川の結果も確かに気になるが他人の事は二の次、
自分のことだけに意識を集中していないと今の俺は確実に落ちるだろう。
名雪はあくまで特別、そう特別なのだ。
だからこそ貴重な時間を割いて結果確認に同行したのだから。
「はぁ…こんなことなら前々から真面目にやっとくんだったなぁ…」
何を言っても過去が変わるわけではない。だからこそ未来を変えるんだ。
言葉にするのは容易いのだが実行するのは困難を極める。
今まで大した成績でもないのにそれに甘んじていたツケが回って来たというわけだ。
そんな自分の未熟さに一種の苛立ちを覚えた。
その苛立ちはどこへやるでもなく当然のように勉強へと費やした。
今までのツケを支払うが如く黙々と勉強に勤しんだのだ。
時間の経過を忘れて。気がついた時には既に日が昇り始めていたほどだ。
よほど集中していたに違いない。
朝食時に名雪たちが何度か部屋に顔を出したことを聞かされた。
あまりにも集中していたから声を掛けないでおいてくれたらしい。
「皆の期待に応える為にも何としても受からないとな」
決意を新たに勉強を再開しようとしたが、
流石に徹夜で勉強をした為眠気が酷い。
「少し寝るか…」
軽く休みを取るつもりで床についた。
☆
合格発表日。俺は1人で掲示板の前に立ち尽くしていた。
既に番号確認を済ませあとは帰路につくだけだった。
だが、その一歩が踏み出せずにいた。
答えは至って簡単、俺の記憶している番号がなかった。それだけのことだ。
これで何度目だろうか。幾度となく味わった敗北感が俺を追い詰めていた。
1つだけ結果待ちの大学があるがレベルはここよりもやや高めなので、
合格している可能性は極めて低い。
いわばここは俺にとって潜ることが可能な最後の門だった。
しかし、そこを潜ることすら俺には許されなかったらしい。
見えざる壁が俺の行く手を阻んだためだ。
距離的には手を伸ばせば届きそうな程に近い。だが実際は遥かに遠い存在だった。
見えざる壁を壊す力をつけていなかったからだ。
足元では先程からUターンのマークが点灯している。
『結果は如何なる方法を用いても覆すことは出来ない』
そんなことは既に分かっていた。
分かっていたのに絶望の境地に立たされた俺の足は1人で動かせるほど軽くはなかった。
進むことも戻ることも出来ない俺。
Uターンのマークは依然瞬きを続けていた。
それはまるで動かない俺を不思議に思い様子を伺っているようだった。
☆
「うわぁ〜!」
事の自体に驚き勢いよく跳ね起きる。
「また…夢か…」
気づくやいなや俺は頭を抱えた。
次に見るのはどんな夢だろうか。
夢の中の俺は未だに合格していない。残る大学はあと1つ。
そして、そこは……。
考えれば考えるほど自分を追い詰めているのが分かる。
何故なら俺に残された試験はその大学だけなのだから。
他の大学は今週中に立て続けに結果が発表される。
今まで受けてきた大学はどこもレベルが似たり寄ったりなので、
出足を挫かれるとかなり痛い。正直躓くのは夢の中だけで十分だ。
「あ〜、もうダメだ!」
どんどん自分で自分の首を絞めようとしているのが分かった。
このままではかなり危険だと判断した俺は、今までの悩みを断ち切るが如くこう決めつけた。
そう、所詮夢は夢なんだ。何も難しく考えることなんてないじゃないか。
夢が怖くて受験ができるか、と。
「さて、勉強を再開するか…」
決意を新たに机に向かうことにした。
既に結果が変えられないのであれば、結果が出ていない大学に全てを掛ければいい。
変えられない結果の中で合格している大学があれば良し。
ないのであれば、出来る限りの努力、もとい抵抗をする。
難しいことを考えている余裕があるなら、今は合格に向けて努力を重ねるのみ。
それが徒労に終わろうと全力を尽くせたのなら後悔はない。
そんなことを考えていて先程までのやる気が再び湧き上がって来た。
「よし、やるぞ〜!」
無駄な心配をしないことで精神的な負担が減ったため、休息前よりも頗る調子が良い。
勉強も思いの外捗り、現在の調子を維持すれば昨日の遅れを取り戻すことなど容易だった。
容易なはずだった。だが実際には勢いに乗り始めたところで夕食の時間となってしまった。
仕方なく勉強を切り上げ食事を取ることにした。
「前と同じように放っておいてくれても良かったのに」
と2人に進言したのだが、名雪が激しくそれを拒んだらしい。
恐らく、夜の闘いに備えて食事を取っておいた方が良い、
という名雪なりの心遣いから取った行動だろう。
だから俺もその要求をあっさりと聞き入れた。
確かに時間が惜しいというのはあるが、
結局皆が寝静まってから食事を取るのであれば、
今取っておいてもさほど変わりはしないだろう。
それに丁度腹も空いてきた頃合いだった。いわばタイミングが良かったのだ。
その代償は勉強の勢いという受験生にとってはとても痛いモノだったが、
夕食を済ませたことによって腹が満たされ、一概には悪い事ばかりではなかったとも言える。
しかし問題なのはこれからだ。空腹感が満腹感に変わった事によって訪れる眠気は、
受験生にとっては脅威としか言いようがない。
「ダメだ…眠い…」
何とか問題集を開いたが、無念にもそのまま机に伏せたまま俺は夢の中へと落ちてしまった。
☆
「…いち…祐一……」
「んっ…?」
「祐一、起きてよ祐一」
目の前にはパジャマの上に半纏を羽織った名雪が立っていた。
「何だ、名雪か。どうした?」
「どうしたじゃないよ。私が勉強の様子を見に来たら、祐一、机に向かったまま寝てるんだもん」
「あっ、そうか。俺、夕食を食べてから部屋に戻ってきて…」
あの時、直に眠ってしまったらしい。また貴重な時間を無駄にしてしまった。
「祐一、勉強捗ってる?」
「この状況を見て分からないか?」
「うん、そうだね。でも、もうここまで来たんだから体調管理もちゃんとしなきゃ駄目だよ?」
「分かった。次回からはちゃんと布団で寝るよ」
「うん♪じゃあ、私もう寝るけど勉強頑張ってね」
「ああ」
返事をしながら机の上を整理し、問題集を改めて開く。
「あっ、そうだ祐一。分からないことがあったら何時でも私に聞いてね?」
「ああ、分かった。あっ、それと名雪…」
「ん…何、祐一」
「夜は、おやすみなさい、だろ?」
「うん♪お休みなさい♪」
部屋を出る名雪を見送り、再び机に向かい直す。
だがその際におかしな物を発見する。
本来俺の部屋にあるはずのない物が床に転がっていた。
「あれ?あれってもしかして…」
近づいて拾い上げてみたが見間違いではないらしい。
「う〜ん、どう見ても名雪に返した時計だよなぁ…」
何故それがここにあるのか。それは分からない。
少なくとも俺が名雪を見送る際に振り返った時は何も転がってなどいなかった。
しかし、一瞬目を離した隙にふと姿を現した。
まるで誰かが魔法でも使ったかのように。
「ゆーいち、ゆーいち…」
続いて驚くことに突然それは声をあげた。何度も俺の名前を繰り返している。
それはただ俺の名前である『祐一』を声に出しているのではなく、
俺のことを呼んでいるような声に感じた。
☆
「…いち…祐一……」
「んっ…?」
「祐一、起きてよ祐一」
目の前にはさっきと同じくパジャマの上に半纏を羽織った名雪が立っていた。
「何だ、まだ寝てなかったのか。で、今度はなんだ?」
「あっ、祐一寝ぼけてる…。祐一、寝る時はちゃんと布団で寝なきゃ駄目だよ」
「ああ、そっか。俺は今まで…ずっと眠ってたのか」
名雪の一言でようやく事の成り行きを理解した。
どうやらさっきのは夢で本当はずっと眠っていたらしい。
時計を確認してみると既に夜の10時を指していた。
「祐一、頑張るのもいいけど無理はしないでね?」
名雪は合格してからより一層俺に気を使うようになった。
部屋を出る際にも「分からないことがあったら何時でも聞いてね?」と優しい言葉を掛けてくれた。
まあ、実際俺が目指している大学よりもレベルの高い大学に受かっているのだから、
まるで不思議なことではないとも言えるのだが、結局のところ気持ちの問題だ。
男としてのプライド。ただでさえ名雪よりレベルの低い大学を目指しているのだから、
ここで当人の手を借りることは避けたい。
「…っと、さっさと始めないとすぐに朝になっちまうぞ」
問題集を開いて急いで手をつけ始める。だが思うように頭が働かない。
俺には手にペンを持ち、何か記号を記しているようにしか感じられなかった。
自分でも何がなんだか分からない不思議な感覚に捕らわれながらも問題を解き続けてみるが、一向に状況は変わらない。
「とりあえず…解けたところまで答え合せしてみるか…」
自分の導き出した解答を問題集の解答と比べてみる。
その違いは明らかだった。極々有触れた計算ミス。
「くっそー、これも違う…」
それを1つずつ確認していく。
「あっ、祐一、ここも間違ってる」
突然横から少女の声がした。
「…って、うわぁ、名雪!?部屋に入る時はノックくらいしろよ」
「ノックしたよ。祐一が気がつかなかっただけだよ」
「だったらせめて部屋に入った際に一言掛けてくれ」
「うん、分かった。次からそうするよ」
「ああ、そうしてくれ。…で、何か用か?」
俺の質問で何かを思い出したかのように名雪が告げた。
「あっ、そうだった。あのね、北川君から祐一に電話が掛かって来たんだよ」
「へぇ〜、で、用件は?」
「祐一を出してくれ、だって」
「俺を?」
名雪に促され俺は部屋をあとにした。
☆
「おい、電話変わったぞ」
「よっ、久しぶり!」
声の主は相変わらずの調子で話し掛けて来た。
「ああ、そうだな。で、何の用だ?」
「いや、水瀬から聞いたんだけど、まだ合格決してないんだって?」
「悪かったな。そういうお前はどうなんだ?」
「俺か?ふっふっふ…聞いて驚くなよ?」
意味ありげなセリフを北川が吐いた。
多分俺よりも一足先に大学に合格したのだろう。
「いや、何て言うかある程度推測出来たから言わなくていい」
「そうか。まっ、お察しの通りだ。でもまぁ、こんな俺ですら受かったんだ。お前だってきっと受かるさ」
「だと…いいけどな…で、用件はそれだけか?」
正直俺としては、少しの時間でも勉強に費やしたいところだ。
先程のことも少なからず胸の内に不安としてあるが、
最後までベストを尽くしたいというのもある。
「まあ、話すのは久しぶりだし、もうちょっと話していたいところだけど、
お前だってまだやることがあるだろうからな」
最近まで同じ受験生という立場に立っていたからだろうか、俺の気持ちを汲んで手短に話を切り上げてくれた。
「そうか、悪いな。じゃあ切るぞ?」
「あっ、水瀬に代わってくれるか?」
「名雪に?」
「ああ」
「分かった。一寸待ってろ」
北川にそう告げてから名雪を呼びに行った。
2階からは降りて来ていないので、選択肢としては名雪の部屋か俺の部屋。
「まさか…な」
嫌な予感がしたので、念のため2階に上がってから真っ先にその部屋のドアを開けた。
「名雪……」
「あっ、祐一……」
予想は的中していた。名雪がそこで何をしているのかさえ。
互いに一瞬凍りつく。
「あっ、これはね…」
「北川が代わってくれだってさ…電話…」
「うん…分かった…」
済まなそうな顔をして名雪が部屋を出ていった。
「……………」
俺は名雪が部屋から去った後も、椅子に座るでもなくただ立ち尽くしていた。
チェックの付けられた解答用紙を見つめながら…。
☆
「祐一、合格おめでとう♪」
少女の声が耳に届いた。
「ああ、ありがとう」
俺は少女に軽く礼を言った。
「これで4月からは祐一も大学生だね」
彼女は曇りのない笑顔で言った。
「ああ、そうだな」
そう、これで4月から晴れて大学生になれる。
それぞれ大学は違うが、未来に向かって歩み始めるのだ。
「ねぇ、祐一」
「んっ、何だ?」
「私との約束、まだ覚えてる?」
少女との約束。内容を要約すれば、ずっと名雪の傍にいる。
覚えている。忘れる訳がない。
「ああ」
「じゃあ…」
刹那、独りでに大学が遠ざかる。
「えっ!?」
「祐一、同じ大学に受かるまでふぁいとっ、だよ♪」
「えぇ〜〜っ!?」
☆
「う、うわぁ〜〜〜!!」
あまりにも予想外な展開だったので俺は驚きの余り勢い良く飛び起きた。
「また…夢……」
あの後。名雪が部屋から去った後、俺は何をしていたのだろうか。
勉強?…いや、違う。では、直に床についた?
それも違う。俺はあの場で解答用紙を見つめながら立ち尽くしていたはずだ。
それが今は確りとベットの上にいる。
秋子さんか名雪のどちらかが俺を寝かせてくれたらしい。
(コンコン)
「祐一…」
ノックと同時に聞き慣れた少女の声が聞こえた。
「んっ、名雪か?」
「うん…」
「どうした、入って来ないのか?」
俺の言葉に促されたように名雪が部屋へと入ってきた。
「祐一…」
「んっ?」
「その…勉強、頑張ってるかなって」
ズバリ痛い所を突かれた。
「勉強…?ん〜…そこそこ頑張ってるぞ」
「そこそこ…本当に…?」
「本当だって。お前は俺の言っている事が信用できないのか?」
「そんなこと…ないけど…」
「大丈夫だって。北川だって受かったんだし、俺だけ仲間外れっていうのは嫌だからな。何としても受かって見せるさ」
そう言いながら空笑いをして見せる。実際受かる自信など微塵もない。
俺の中に残っている微かなプライドが何とかそれを悟らせまいと努力しているだけだ。
「うん…とにかく…ふぁいとっ、だよ♪」
名雪は屈託のない笑顔で言うと早々に部屋を立ち去った。
刹那静寂が訪れる。
「名雪…」
堪らず声を発したが返事は返って来ない。
「俺は…一体何をしているんだろうな…」
空を仰ぎ見て自問自答する。だが、答えは出なかった。
☆
悪夢。訊かれたくないこと。触れられたくないこと。
出来ることなら全てが夢であって欲しい。受験など…勉強など…。
不合格という烙印を押されることなど試験前から想像に難くなかった。
が、必死の努力も徒労に終わってしまったのかと思うと、ショックを隠すことは出来ない。
周りの者は「来年がある」と励ましてくれるが、俺にはそれは辛抱ならない。
名雪の前で浪人という失態を見せたくはないからだ。
近年は少子化という深刻な問題もある為か、どこの大学も生徒確保に躍起になっている。
といっても、名の知れぬ大学は定員割れ、酷い所では廃校へと追い込まれているのに対し、
名のある大学は確実に生徒を確保している。
勿論俺が受けた大学もそこそこ名のある大学で、たまに新聞の片隅などに広告を載せているのを見る。
「……………」
声に出ない思い。最後の、いわば命綱だったはずの志望大学。
合格の為に一生懸命努力をして実を咲かせようとしたにも関わらず、散る時はほんの一瞬だった。
それが運命…終焉の時?
もしもこの結末が運命であるならば、こんな形で終わって良い訳がない。
終われる訳がない。
俺は名雪の傍にいたいから。
何時だって名雪を守ると誓ったから…。
☆
「んっ…うーん…んっ!?夢…か…」
最後の試験が近いせいだろうか。
最近見る夢のほとんどが悪夢だった。
合格したいという望みもなくなるほどの回数。
故に近頃は半ば諦めモードで机へと向かってしまっている。
気合負けしていると言ってしまえばそれまでだが、
度重なる悪夢は何とも耐え難いものだった。
何時までこの状態が続くのだろう。
周りが合格をすればするほど自分の中では焦りの感情が高まって、
自分は今何をするのが最善の策なのかが分からなくなって来た。
出来ることなら早くこの苦しみから解放されたい。
その為には何としても合格しなければならないのだ。
浪人などという失態を犯し、もう1年同じ苦しみを味わうのは真平御免だ。
「駄目だ…勉強がまるで手に付かない…」
このままではまずい。気分転換する為に風呂に入って少し頭を冷ますか。
☆
「はぁー、サッパリしたー」
気分転換の風呂は中々効果があった。
危うく疲れと眠気のせいで湯船に沈み掛けたが、
そのおかげで眠気が飛んだことも事実だ。
「これで朝まで頑張れるな」
そんなことを呟きながら自分の部屋のドアを開ける。
「…!?」
刹那、おかしな光景が目に入った。
慌てて近づき声を掛ける。
「おい、名雪、部屋を間違えてるぞ!」
「うにゅ?」
「さぁ、起きたならさっさと自分の部屋へ行く」
完全に寝惚けているようだが、何時ものことなので名雪を追い立てる。
だが名雪も負けてはいない。
「う〜…私、ここで寝てるだけから勉強続けていいよ〜…くー…」
随分と勝手なことを言ってくれたものだ。俺も負けずに食い下がる。
「それじゃあ勉強に集中できないんだよ!」
「大丈夫…だよ」
「何が?」
昔からずっと思っていたのだが、よく眠ったままここまで喋れるものだ。
「祐一は集中すると…」
「すると?」
「くー……」
微妙なタイミングで入る寝息。
時には、からかっているのでは?と思わされることさえある。
「おい、せっかく起こしてやったのに寝るな!」
毎度の事ながら世話の掛かる奴だ。
「祐一…」
「ん?」
「ふぁいとっ、だよ♪」
「なっ!?」
突然の予想外の台詞に慌てる俺。
「…くー…」
「なんだ、寝言か……」
正直とても寝言とは思えない台詞だった。
暫く静寂の時が流れる。
何故だろう。名雪の傍にいるだけでこんなにも心が落ち着くのは。
俺は勉強のことなどすっかり忘れて、
名雪といるこの世界に夢中になっていた。
2人だけの世界。ここなら俺は全てを打ち明けられそうな気がする。
そう思った俺は突如眠ったままの名雪にこう切り出した。
「なぁ、名雪…お前…夢って信じるか?」
返答はない。が、既に答えは分っていた。前にも同じ質問をしたことがあるのだから。
「俺さぁ…最近…」
俺は全てを告白した。
自分だけが合格出来ないのではないかと焦っていたこと。
それに伴い最近悪夢に魘され続けていること。
そして、夢の結果が何時も好ましくない終わり方をすること…
順を追って説明をしていった。
名雪は一向に答えてくれなかったが、お構い無しに話を続け最終的に俺はこう告げた。
「馬鹿だよな…俺。独りで抱え込んで…結局は耐え切れずに溢れちまうなんて…。
こんなのでよくお前の支えになってやるなんて言えたよな…ホント…情けないよ…」
「そんなこと…ないよ」
少女の声。
「な、名雪!?起きてたのか!?」
「祐一…ごめんね。あの時、気付いてあげられなくて」
「やめろよ、情けなんて…所詮俺は自分のことすら満足に出来ない駄目な男なんだから」
「違う、違うよ祐一…祐一は…駄目なんかじゃないよ」
「でも俺は…!」
「ねぇ、聞いて祐一」
名雪が俺の言葉を遮る。
「私ね、あれから何度か考えたんだよ。夢って一体何なんだろうって…必死に考えたんだよ。
それでね…私…思ったの。夢が何なのかなんて結局分からないって…。
でもね祐一、私思うんだ。夢に捕らわれ過ぎてちゃ何も始らないって…何も変わらないって。
それに…それにね、祐一だって我侭言ってもいいんだよ…独りで考え込まなくていいんだよ。
困った時はお互い助け合わなくちゃ…ねっ?」
「名雪…」
「分かった、祐一?」
「あっ、ああ…悪い…」
今頃になってはっきりと分かった。名雪が気付かせてくれた。
結局俺は名雪との約束に縋っていただけだと。
そして、耐え切れなくなると、全てを夢のせいにして終わらせようとしていたということに。
☆
「祐一、心の準備はできた?」
「あっ、ああ…よし、い、行くぞ!」
今日は俺の最終試験の合格発表日。他の大学は残念ながら夢と同じ結果だったので、
ここが駄目なら俺は浪人することになる。だが、あれから俺も出来る限り努力をしたし、
最初の頃とは違い名雪が付き切りで勉強を見ていてくれたのだ。
これで不合格なら仕方がない。
掲示板の前に立ち、2人して顔を見合わせる。
「いよいよだね、祐一」
「ああ…これで全てが決まるんだなぁ…」
「そうだね。でも、あんなに頑張ったんだし、絶対大丈夫だよ」
「あっ、ああ…よ、よし…じゃあ、見るぞ…」
緊張の一瞬。顔をゆっくりと上に動かしていく。
そして遂に審判が下る。
「あっ…」
目当ての数字は存在しなかった。立ち尽くすことしか出来ない俺。
名雪はというと既に横にはいなかった。俺は独りになってしまったようだ。
結局俺は独りぼっちということだろうか。
☆
「それにしても酷いよなぁ…」
「ごめんね祐一。でも、本当によかったよ♪」
あとで名雪が何をしに行っていたのかを聞いた。何でも別の掲示板を見に行っていたらしい。
名雪の話によると俺は補欠合格だったそうだ。
名雪がいなければ補欠合格枠があることをすっかり忘れていた俺は、
合格通知が家に届くまで落ち込んでいたかもしれない。
「これで祐一も4月から大学生だね♪」
「ああ、本当にありがとう。頑張って勉強した甲斐があったよ。それと…」
「ん…?」
「名雪が勉強を見てくれたおかげだな」
「うん♪」
本当は分かっている。俺だけの力じゃない。名雪の力だけを借りたのでもない。
秋子さんや北川だって些細なこととはいえ俺に力を貸してくれていたことも分かっている。
だけど、今は名雪に対してだけ感謝の意を表したかった。
勿論向かう先は百貨屋。
「よし、今までのお礼に今日は好きなものを奢ってやるぞ」
「うん♪あっ、でも今日は祐一の合格祝いだから、私が祐一に奢ってあげるよ」
「じゃあ一緒にイチゴサンデー食べるか!」
「うん♪」
冗談交じりで言ったのだが、どうやら現実のこととなりそうだ。
「あっ!でも俺、甘いの苦手だった…」
「大丈夫だよ」
「そうだな、駄目だったらお前にあげればいいんだもんな」
「うん♪」
名雪の笑顔が太陽に照らされてとても眩しく見えた。
そう、あの時と同じ。今日も空は綺麗に晴れ渡っていた。
そして俺の胸中も曇り1つなく、
差し込む光はまるで俺にこれから歩むべき道を示しているようだった。
Fin_